肺にカビが生えて、細胞が壊死して腐食していき、やがて侵食され蝕まれた臓器が痙攣して、脳が麻痺する。
正常な判断力を失い、理性を失い、感覚も鈍くなり、すべてを捨てようとも彼に触れるその指先の感覚だけを特化させようとする。全神経をその人のためだけに使い、エネルギーも時間も何もかも捧げる。一種の麻薬みたいなものだ。ハイになって、その身が滅ぼうとも、誰かを守ると誓う。そしてそれを至高の喜びとする。一種の洗脳状態を、我々は、恋という。
よく見かける光景だからといって、それが正しいとは限らない。
浴衣姿の祭り客。手を繋いで微笑む姿。オレンジの明かりに照らされた光が、とても自然とは私には思えない。
「ユマちゃん、いたんだ」
あっけらかんとして声をかけてきた例の男に、私は黙って一つ頷いた。親戚の手伝いで。小さなりんごを水飴にくぐらせる仕事をただひたすら。
「そっちは」
「今さっき来たとこ」
「そう」
彼の屈託のない笑顔を見つめる。優しそうに笑う彼の表情を、眺めて、記憶しておきたいと思う。この優しい笑顔を無邪気に振りまく、とても純粋で恐ろしい、邪悪な彼の姿を。思考。頭の中ではどれだけでも自由に事実を曲げられる。
それでも目の前で私を見つめる長身の彼に、青い浴衣は似合ってる。彼は自分から着るタイプじゃない。着れるほど器用でもない。私は黙って手にしていた赤い果実を見下ろした。つやつやした表面に、オレンジの明かりと私の無表情が映り込む。
彼のそばにはいつも、私じゃない誰かを感じる。透明な気配が、透明な匂いが、彼の笑顔にまとわりついて映っている。
「夏祭りは4度目?」
小さなりんごをまた水飴にくぐらせながら、私は聞いた。祭りの音に耳を澄ませていた蜂散が、ぽかんとして眉を上げる。
「なんで?」
「私たちはサーバー間を行き来できない。あなたがどこで何をしているのか、私たちには知る術がない」
モンスターらしからぬマヌケな顔をした彼に、私はただ説明のつもりでそう言った。
別に不幸なこととは思わない。私たちの歴史は不可侵の領域がすぐ隣に存在することさえつい最近まで知らなかった。
ただ、彼が他者への干渉をいとも平然に、ラクラクと、平気な顔してやってのけるから、それが自然なことなのかどうかわからなくなる。ぽたりとたれた水飴が、氷に冷やされて固まる。気分が悪い。彼が普通にすることを、私たちは想像でしか補えない。
「4回目だよ」
ぽつりと、零すように彼は言う。形容するなら告白、それとも、白状かな。
次のりんごを手にとって、彼に何をするわけでもなく私はただそれを同じ動作で水飴の中に入れる。入れたら持ち上げて、透明にする。
「いつも違う人と?」
「そうだよ」
「同じことを繰り返すことに意味はあると思う?」
少し黙って、彼は私を見つめた。困ったように笑って、彼は肩を上げる。
そうやって誤魔化そうとする。私のことも、自分自身のことも。
「俺には同じじゃないんだ」
受け入れがたい理屈だ。並列に並べられた3つの世界のうちの一つに閉じ込められた自分を、
彼と他の誰かとの時間に丁寧に規則的に並べられた自分と彼の時間を、特別だと思えなくなるからだ。
人は誰でも、誰かにとっての特別になりたいのに。
とぷん、と水飴の中に閉じ込められた泡が、苦しそうな程ゆっくりと、透明な水面を目指してあがってくる。
「同じだよ」
喉から迫り上がる声は、水飴みたいに透明。
「私がそう思うんだから、他の人達はもっとそう」
あなたに絡められた透明な気配。登って来る泡は、まだ開放されない。
「私達の街は、他の街に比べたら屑みたいなものよ。平和も平等もない。暴力と悲鳴、それが当たり前のように呼吸の中に存在する。おかしいとも思わない。壁の向こうには幸せな世界があるのよね。でも私達はそこへは行けない。一生この街の中で生きるの。越えられない壁の存在なんか、知らないほうがこの街は幸せだった。あなたはどう? あなたの存在を知らないほうが、彼女たちは幸せだったと思ったことは?」
「俺のこと怒ってる?」
「怒ってない。ただ不思議に思うだけ。どうしてあなたが特別で、彼女たちは特別じゃないのか」
ぱたり。水飴が落ちる。その透明な物質は、ある程度の粘度をもって、私の指を汚していく。
しばらく思案していた様子の彼が口を開きかけた時、丁度夏の夜空を華麗な爆発音が覆う。
ばっと夜空を見上げる蜂散。どよめき立つ民衆の中には、走りだす者の姿もある。ぼんやりと私の肌は、一瞬にして空気が変わってしまったことを理解する。だからもうあっさりと、彼を追求するのはやめた。
「4度目の花火よ。見てきたら?」
「ユマは?」
「私は並べられたくない」
じっとりと夏の熱さが下から這い上がってくる。近いようで遠い花火の音が、私の頭をガンガン打った。煩わしい、と思う。4度目の煩わしさ。4度目の切なさ。彼の背中を見つめた4人が飲み込んだ、4つの「待ってよ」。4度じゃ効かないかもしれない。私はそれを知る術すら持たない。
「蜂散」
呼びかければ振り向く。あなたが優しいことは知っている。
「あなたの生き方、理解出来ない。でも好きよ。私、きっとあなたが好き」
爆発音と歓声。祭りの音。楽しげで、華やかで、賑やかで、煩わしくて、頭が痛いぐらい切ない、音の洪水。自分の声が、相手に伝わったかどうかさえわからない。だけど、わざわざ声を大にはしなかった。
「あげる」
そっと差し出せば、蜂散もそれを受け取った。
透明で甘ったるい、小さな赤いりんご飴。小さくても禁断の果実。
だから一人で食べて。私はあなたと一緒に地の底には落ちたくないの。
「これも4度目?」
笑って言えば、彼は答える。
「君から貰うのは初めて」
なんだ。そうなの。
モノは言い様ね。