寒い寒い冬が来て、外をほっつき歩くのはもうキツい。俺の最後の確かな記憶では、鯉壱たちは雪だるまを作って元気に遊んでたけど、寒さに凍える俺の足はもうふらふらだ。最近しっかり歩けてる気がしないのは、この寒さのせいだけじゃなくて、襲い来る睡眠障害のせいもあるんだけど。眠れない日々が続いたかと思うと、気がつけばカレンダーが勝手に俺を未来へ飛ばしたりしている。起きていても寝ているし、寝ていても起きている。夢と現実の境目は曖昧だ。最初っからそうだったのかもしれない。モンスターであるこの俺がリヴリーと仲良くしているという事実こそはじめから夢なのかも。思考はそうやってくだらないことをぐるぐるぐるぐる考え始める。ぼんやり、霞がかかったみたいに、脳味噌の速度はゆるやかに落ちていく。俺って今ちゃんと生きてるんだろうか。時々疑問に思う。俺が眠るように一歩踏み出すたび、足の下で雪が汚れる音がする。
一本道をずっと歩いて行く。周りには木しかない。白い絨毯がひかれたみたいに、まっすぐ道は奥へ奥へと続いていく。これだけわかりやすいと誰も迷わない。それに、暗い森へ真っ直ぐ続く白い絨毯の上を、リヴリーたちは誰も迷い込もうとは思わない。しゃくしゃく、俺は歩いて行く。鼻先が冷てえな、とぼんやり思った。
***
胸の中いっぱいに溜まった煙を吐き出すようにして、俺は深い深い息を吐いた。あんまり歩いた感じがしない。どうやってここまで来たんだっけ。俺は振り返って道を見た。真っ白い絨毯。俺が歩いてきた痕がちゃあんと付いている。ふらつく足で三段しかない階段を登った。登った先の、目の前のくずれそうな扉にごんと頭を打ち付けて、俺はだらりとドアノブを掴む。重たそうな鉄のドア。あちこち錆びてて、押し付けた頭がひんやり冷たくなってくる。
開けるの、やめようか。一瞬濁った頭のなかにそんな考えが淀んだ。このまま戻って、ツユキのところに行こう。最後にあの子の顔を見るのを忘れたろ。戻れよ、戻ってあの子にお別れを言うべきだ。最後にツユキを見たのはいつだっけ。クリスマスの日? 曖昧だ。あの日も俺は頭がふやけてた。ツユキの笑顔をぼんやりと思い出す。思い出したら会いたくなる。あの子の声が聞きたくなる。俺はドアノブを掴んだまま、額をドアに押し付けたまま首を横に傾けた。
でも会ってどうする。と俺はまた思う。この状態で会って、俺はまともにあの子と接することができるのか? 自信がない。フラフラ行ってあげく前後不覚になって、彼を見た途端勢いで噛み付いてしまいそうだ。行ってどうする。あの子に別れを告げる勇気など、無いくせに。俺はモンスターに戻るので、もう君とは逢えません。今の俺にそれが言えるか? 毎年言えなかったくせに、今年から突然言えるようになるのか。
「………」
静止したままの格好でずいぶん時間が過ぎた気がした。ドアに押し付けられていた額はもうずいぶんと冷たくなって、感覚がない。ひっぺがして指でなぞったら、でこぼこの痕がついていた。またニータにバレたら今年も散々笑われる。ドアの前でこの扉をくぐるべきか否かと悩むのは、スズメバチの中でも俺ぐらいなもんだ。俺は結局、額にやった手を重力に任せて下ろすその勢いで、ドアノブを回した。
軋む扉。狭い廊下。狭くて息苦しい、染みったれた小さな故郷。ドアの傷も、剥がれかけたペンキの色も、全部全部ろくでもない思い出が蘇ってきてここはうんざりする。だけど、俺はむしろこの場所をきちんと愛すべきなのかもしれない。狭い廊下を歩き出すと、どっと疲労感が体を襲う。着ていたコートをその辺りに適当に放り投げて、俺は枝分かれした細い廊下を次々と曲がっていく。右、左、左、右。いくつもいくつも、似たようなドアが並んで続いているこの迷路のような屋敷で、一度も迷子にならないのが自分で不思議だ。年に何回かしか来ないのに、体が勝手に記憶している。なんて、実はそんなの俺の勝手な勘違いで、本当はただ単純に彼女に吸い寄せられていっているだけなのかもしれないけど。
一番奥の部屋、それが彼女の部屋だった。この部屋のドアだけが白い。それもしばらく見ないうちに、なんだか黒ずんで色褪せたような印象だ。でも俺の気のせいかも。だって今の俺は頭がおかしいから。ドアノブをそっと回すと、鍵がかかっていた。俺は入り口でそうしたのと同じように、頭をドアに打ち付けた。
「いるんだろ」
ずいぶん疲れた声が喉から出た。俺はドアノブから手を離して、白いドアに耳を押し付ける。幽かに、でも確かに、そこからゆるやかな息遣いが聞こえてくる。彼女もドアのすぐそばにいるらしい。
「なあクイン」
俺は縋るようにそう言った。
この部屋には、たとえ誰であろうと女王の許可がないと入れない。そういう決まり。ずっと昔からそうだった。先代も、先々代も、このルールをみんなに守らせた。俺が入ろうとしてダメだと言われたのは、先々代の時、一度きりだけど。あれは何があった時だっけ。思い出そうとしたがダメだった。小さすぎてよく覚えてないし、何より今の頭では何も考えられない。
ぼうっとドアを見つめている俺の耳に、がちゃりと静かに音が届く。
彼女の声が、ドアの向こうから響いた。
「どうぞ」
溶けた脳味噌が、クインの声で覚醒する。その一言だけで、もう胸が苦しくなった。冴えた目を息苦しさに細めながら、俺は扉を見つめた。ツユキに会わなくてよかった。急激に乾きはじめた喉を鳴らして俺は思う。彼に微笑みかけることも、彼を優しく抱きしめることも、今の俺にはできるわけがない。今の俺に許されているのは、クインのそばで、彼女のために、彼女のことだけ考えることだ。モンスターの俺には始めからそれしか出来ないっていうのに、俺はツユキを愛せるかもしれないだなんて、何をぼんやり夢みたいなことを考えてるんだろう。震える手で、ドアノブを掴んだ。ドアを開ければクインがいる。いつの間にか激しく音を立て始めた心臓が、ぞくぞくと震える体が、彼女に抵抗できないことを知っている。その証拠にまだ姿さえ見ていないっていうのに、俺はこんなにも苦しくて、こんなにも後悔している。
爆発しそうな心臓を押さえつけて息をすることに必死で、流れていく気持ちの悪い汗とよくわからないままじわりと溢れる涙にさえ気づく余裕もない俺は、今度はゆっくりと、慎重に、右手でドアノブを回した。
久しぶりに見た彼女の姿は、前より小さくなっていた。今ならはっきり分かる、彼女は随分と痩せていて、どんどん小柄になっているような気がした。それでもギラつく美しい黄緑色の目だけはあの頃と変わらないまま真っ直ぐ俺を見つめるから、俺はそれだけで彼女から目が離せなくなって、瞬きもできないまま、ただ泣きそうになる。あァ、クイン。
彼女は俺を見て、ぴくりと片方の目だけを細めると、眉をひそめて微笑んだ。笑った顔は小さい頃のまま。俺は微笑み返すこともできずにただゆっくりと彼女に手を伸ばして、華奢な体を抱きしめた。交わされるのは、ゆっくりと、でもお互いがお互いを貪るような、獰猛で、攻撃的で、かつ本能的なキス。いつの間にか涙が溢れて、彼女を抱えてキスしたまま床に突っ伏して泣きたくなる。わけがわからなくなるぐらい切なくて、彼女が愛しくて、無我夢中になる。思考は停止して、脳味噌はキスの味でまたドロドロに溶けていく。胸の奥が苦しいのは酸素が足りないせいじゃない。彼女が足りないせいだ。クインは細い腕で俺を乱暴にドアに押し付けた。それでもモンスターは快感の前じゃ痛みなんか感じない。彼女はそれを知っていた。クインはキスをやめない。鼻にかかる彼女の息が熱い。もうこれ以上は立ってられなくなる。そう判断する頃には自分の体の重さにも耐え切れなくなって、俺はずるずると重力に沿ってドアにもたれかかるように崩れ落ちた。しっかり彼女の首に手を回したまま。クインは四つん這いになって、それでも俺からはなれない。思い切り長く、深く、俺の息を吸ったあとで、彼女はようやく俺を開放した。
ちゅ、と音を立てて離れていく唇。相当な熱量を持って俺の脳内はショートさせられる。完全に破壊されて、もう何も考えられない。クインの視線がぼんやりと泳いで、そのまま俺の胸の中にドサリと倒れこんだ。俺の視界は滲んで、彼女を抱いてドアにぐったり寄りかかったまま動けない。二人の息遣いだけが聞こえる。それすらかかっているかどうかすら曖昧なBGMのようだ。
もう一生俺の頭は使いものにならないかもしれないとさえ思う。脱力感と、倦怠感。全身が鉄の塊みたいに思えた。視点の定まらない目を瞬いて、彼女をどうにか見つめる。気のせいか、なんだかくらくらする。
クインは俺の手から手袋を乱暴に外した。ずるりと引き剥がされて、冷たい空気が肌に触れる。左手の薬指。俺が女王に捧げた傷跡が、いまもそこには残っている。俺はもちろん動けないから、黙ってクインを見つめていた。もうこれ以上かじられるようなら黙って死体になるよ。彼女は俺の頬を両手で包んだ。手袋を取った彼女の素手の肌の感触が想像していたよりもずっと暖かくて、俺は思わずゆっくりと目を閉じる。ただこのまま目を閉じていたくて、それぐらい体中が重くて、頭のなかがフワフワしていて、なにもかもどうでも良かった。
「ハチル」
俺に小さなキスをして、クインの細い体がぽすりと俺の胸の中に寄りかかってくる。その感覚があまりにも幼くて、暖かくて、なんだかふいに、切なくなった。目を開けるとそこにいるのはクイン。金色の髪と、黄緑色の目。当然だ。わかってる、俺は何を考えてる? それすらわからない。白いモヤだらけでよく見えない。ぼんやりと霞む頭の奥で、誰かの声が、目を閉じろ、と俺に言う。何も考えるな。彼女のそばで、彼女のために、彼女のことだけを考えればいい。
ああそうだ、俺はスズメバチなんだから。彼女のために生きるのが、俺の幸せなんだから。
俺は何も言わずに目を閉じる。彼女がつけた傷跡が、急に痛み出す。
わけがわからないまま、目尻から一粒温かい涙が流れていく。
それを丁寧に親指で拭ってから、俺の耳元で、息がかかるほどの距離で、愛しい彼女は囁いた。
「おかえりハチル」
ぼんやりと、瞼の裏に浮かんで消えた銀色の霧。
なにもかも夢? 俺はまだキミと一緒にいるよな。
はっきりしない頭で考えるのもめんどくさい。
だってこの腕の中に、確かに温もりは存在するのだから。
俺には、彼女がいれば幸せ。彼女の幸せが俺の幸せ。
そう思わなきゃ、そう思わなきゃ、ねェ、やってなんかいられないから
あァ、俺の女王陛下。
何もかも、あなたのお望み通りに。
「ただいま」