たまに、たまにだけれど、心の底から大好きなひとをどうしようもなく憎いと思ってしまうことがある。
それはきっとこんなにもこんなにも大好きな想いを上手に伝えることができないわたしと、こんなにもこんなにも想っているのにわたしを裏切り続けるハチルさんの、両方に原因があるのだ。その二人以外に原因があるとすれば、どこにあるっていうんだろう? 頭の中には不幸の塊みたいなぼんやりした思考がぎゅうぎゅうに詰まっていて、そのせいでわたしはいま恐ろしくネガティブな気分なのだ。本当は、今すぐお家に帰って柔らかいベッドに飛び込んで、真っ白なシーツをぐちゃぐちゃにしながらきいい、っと女の子らしからぬ奇声を上げてジタバタしたい。もちろんそんなことしたってこの悔しさがあのひとに伝わるわけじゃないけれど、でもそうでもしなきゃやってられない。でもそうしないわけはハチルさんにこの想いが伝わらないせいではなく、そんなことができない状況であるからだ。いまわたしはけじめをつけに、勇気を振り絞ってここにやってきた。ハチルさんのためじゃなく、自分自身のために、単身敵陣に乗り込んだのだ。迫り上ってくるため息を零してしまったら何かに負けてしまうような気がして、わたしはぐっと唇を引き結んだ。
「紅茶のお代わりはいかがですか?」
優しい声をかけられてぼんやりカウンターの先を見つめれば、真っ白なポット片手にそこでふわりと微笑むのは、そう、この子が、この子がもしかしたら、わたしでもなく、ハチルさんでもなく、3つ目の、原因かもしれない。ぼんやりとしたままその可愛らしい顔を見つめていると、ついつい問いただしたくなる。ツユキくん。あなたですか?わたしの恋が、幻のように消えてしまった原因は。
「いや…ううん、いらない」
掠れた声でそういえば急に頭が重たくなってきて、そんなわたしを見つめながら彼はそうですか?、と愛らしい瞳で答えた。彼を見れば踏ん切りがつくかなあと思ってフラフラやってきてしまったけど、やっぱりこれは間違った決断だった。こんな子ども相手になにかできるわけでもなくて、いやもちろん相手のひとがどんなひとだろうと殴り掛かって、あたしのハチルさん返せやァ!! みたいな暴力行為はわたしにはできるわけないんだけど、でもツユキくんをいざ目にしてしまったら、なんだか、自分はハチルさんの元カノですとかそういう意地悪を言ってみる気力も失せたし、むしろ、ハチルさんがこの子に流れたのは自然の流れかもなぁ、と、ぼんやり思ってしまった次第であって。
空っぽになりかけた白いティーカップを大事に両手で抱えて、その端に口をつけて、もう中身なんてほとんどはいってないのに、わたしはみっともなくカップをかじっていた。
きらい、きらい、ハチルさんなんて、きらいだ。この子にあたるわけにはいかないとなると、もうハチルさんにあたるしかない。脳内でシーツをぐちゃぐちゃにしたわたしはそれだけじゃ飽き足らず、枕の上にばふっとダイブしてからそれをぎゅううっと強く強く抱きしめた。理不尽すぎる怒り、だ。分かってる。でも頭に悶々と巡らせずにはいられない。ああ、わたしってば、なんて理不尽な男に恋してしまったんだろう。そう思ったら泣けてくる、だってだってハチルさんの視界には、もう、わたしなんていう小さな存在はこれっぽっちも映っちゃいないんだから。ハチルさんの視界に映っているのは、この景色。このカウンターに、このカップ。キッチンと、すぐそこに立っている、可愛らしい彼。
「ツユキくん!」
がっ、と唐突に立ち上がって悲鳴に近い声で呼びかければ、カウンターの向こうの彼はびくりと肩をふるわせてはい、と曖昧な返事を返してくれた。殴るんじゃないし、文句を言いたいわけでもないので、そんなに怯えないで欲しいのだけれど、わたしは思わず心の中で声を震わせる、ああああチクショウ、チクショウ!! 叫びたいのはね、悲鳴なのだ、ツユキくんよ。わたしの、心の悲鳴なのだ。わたしは君のことを知らない。君もわたしのことを知らない。でもお互い、大好きな彼のことはよくよく知っているのだ。あのひとはどうしようもない浮気者で、ほらね、わたしなんかあっさり捨てられてしまって、いや、正しくはわたしが捨てたのだけれど、でも、でも酷く優しくて、好きな人を、とてもとても大事にできるひとだから、だからわたしは、ハチルさんに、君に、いっしょに幸せになってあげて欲しいと思うのだ。わたしも彼にとても大事にされた女の一人だから、だからその幸せの深さを知っているのだよ。ツユキくん。恋のライバル、というにはおこがましいだろうか。わたしは既に敗退した身なのだし。ツユキくんはわたしなんかよりずっと可愛くて、おしゃれで、何というかもっと大事にしたくなる存在なんだ。だからハチルさんは君を選んだんだ。
突然立ち上がったわたしに向けられるツユキくんのぽけっとした顔が、なんていうか、女のわたしでもぐっとくるような愛らしさで、こういう些細な仕草がハチルさんのハートをぎゅっと掴むんだろうなと思ってしまうともう、ついさっきまで立派なことを頭に巡らせていたのにも関わらずもう、今すぐ泣き出したくなる。みっともない、おんな、だ。ふとした瞬間に見せつけられた現実に絶望しながらも、わたしはなんとかぐっと拳を握って襲いくる目眩に耐えた。悔しい、本当は悔しいよ。悔しいけど、とてもとても悔しいのだけれど、でも、わたしはこの子に負けたのだ。それは、まぎれもない、事実。
「はちるさんを…よろしくね…!!!」
ブルブルと震えながら絞り出した声はツユキくんを、ぼっ、と真っ赤に染上げたけれど、わたしはついに耐えきれなくなって冷えたカップもそのままにお店を飛び出した、飛び出した瞬間に涙がこぼれた、ドアが閉まってからんころんと涼しげなベルの音が鳴り止む前にわたしは一目散に逃げ出した。うええん神様、道のど真ん中で唐突に泣き出すようなめんどくさい女を彼は愛してくれないんです、いや、そんな風に言ったら、まだわたしが未練たらしく彼を思い続けているのが神様にバレてしまうのだけれど。お願いだからとまって欲しかったのに、涙は勝手にぽろぽろ落ちてわたしを苦しめる。数十メートル走ったところですぐに息が苦しくなって、もう我慢できなくて、たまらずわあわあ泣き出した。かみさまかみさま、どうかあの二人が仲良くやってくれますように。もうちょっと欲を言えば、ハチルさんに、あたしなんかのことは忘れろ、って言ってやってください。クソ野郎って、言ってやってください。ツユキくんのこと、大事にしろよって、言って、
人目もはばからずわんわんと泣き続けたけれど、それでも歩く足は止めなかった。ゆるゆるとお店から、ツユキくんから、いいや、ハチルさんが見ている世界から、わたしは離れていくのだ。もうなんで泣いてるんだかわたしにもよく分かんなくて、切なさや悲しさや、恨みつらみとかとはもう関係ないんじゃないかって気さえしていたけど、それでも涙が止まらないので、わざとわあわあ言い続けた。そのほうがすっきりする気がした。歩きながら泣いて、右手の甲で涙を拭った。そのとき。ふいに、掴まれる右手。親指で拭われる涙。ひどく優しい、こえ。
「なんで泣いてんの」
ツユキくんを好きなくせに、わたしに笑いかけるその笑顔が憎い。最低なその性格が、意地悪な台詞を吐く唇が、優しすぎるその指先が、ぜんぶぜんぶ憎いよ。でも、いちばんは、いちばん憎いのはね、今でもあなたに未練たっぷりなわたし。あなたの指先に拭われただけであっさりとまってしまう涙も、あなたの声に跳ね上がってしまう心臓も、見上げた先のあなたの唇に、かじりつきたいと思う脳味噌も。にくい、にくいよ。
かみさまが与えてくれた最後のチャンスを生かさなければという想いで、わたしは彼にすがりつこうとする指先を無理矢理どうにかこうにか引っ込めた。
わたしが嫌いになったのって聞いたら、ハチルさんは言ったよね。
俺はまだ君を愛してるよ。
ねぇハチルさん、わたしもまだあなたを愛してるよ。
でもさあ、浮気は良くないんだよ。わたしはわたしを愛してるって言ってくれるあなたのことが本当に本当に大好きだけど、でも、それが他の誰かを傷つけてるっていうのは、もっと嫌なんだ。誰かの傷の上に乗っかる愛なんて、嫌なんだよ。きれいごとだって笑う?わたしもね、笑っちゃうよ。でも、ハチルさんとの愛だから、奇麗でいたいなって思うんだよ。
わたしはぐずぐずと鼻をならしながら、どうしようかな、と最後までみっともなく迷った。
これを言ったらお別れだ。だから、言わなくちゃ。しっかり息を吸い込むと、頭にわんわん響いていた痛みも少し収まった気がした。すっと見上げた先で、気怠くなるほど甘いキスが降ってくる。最後、これで最後。きっとハチルさんもそれを分かっていた。だからわたしが深追いしようとした彼からすっと身を引いた時、ハチルさんはお預けを喰らった犬みたいに、ものすごく寂しそうな顔をした。それがまだ可愛いと思ってしまうわたしは、クスクスと静かに笑ってみせたのだった。
さよならハチルさん。今まで楽しかったよ。
ツユキくんに吐けなかった暴言を、わたしは目の前の大好きで大好きで仕方のないひとに投げつける。
「このクソ野郎、しあわせになりな」
わたしの頬から彼の手が離れる。
それでも彼は、わたしといっしょで、泣き濡れたあとのような静かな微笑みを浮かべていた。
サマリー:センター街の小さなアクセショップでバイトしている女の子。後にハチルさんを忘れるためバイトを掛け持ちして働きまくる。今でも店に来るハチルさんに悪態つきながらなんだかんだ友達としては仲良し。