moratorium honey 01
ロンドンに住んでいたとき、あたしはとびきり不幸だった。
おうちは小さくて、家庭の事情も複雑だった。
パパはすぐ怒鳴ってママを殴ったし、
そのたびにあたしは鍵のかかったドアと反対の窓からこっそり家を抜け出して、
ロンドンで唯一、あたしが好きだった秘密基地に逃げ込んでいた。
そこは壊れて誰もすまなくなった廃屋の屋上で、
あたしはいつも裸足で崩れそうな階段を上るたびにドキドキするのだった。
ロンドンに住んでいた時、あたしはとびきり不幸だった。
それは子育てに最悪な環境のせいでもあり、
ろくでなしの両親のせいでもあり、
なによりあたしがひねたガキだったからに違いない。
moratorium honey
01 : [ anti the real ]
こんこん、と扉をノックする音が聞こえた。
ウェンディはただふかふかの椅子にくるまって、その広い広い部屋をぼんやりと眺めていたところで。
そんな彼女に柔らかい声がかかる。
「あけてもいいと思うかい、ウェンディ?」
そんなことしるか。
声のする方に頭を回せば、デスクの資料を片手に小首をかしげて微笑む社長の姿。
「いいと思います、カーティスさん」
ウェンディがあきらかにぶっきらぼうにそう返事をくれてやると、カーティスは困ったように笑う。
このNYの大通りにでんと軒を構えるガラス張りのビルと、そのビルに入ったインテリア会社、そしてこの広い社長室を仕切る、彼こそがカーティス社長。
弱弱しそうな、まさしく優男そのものの印象を受ける彼は、ウェンディの前に突然現れた彼女のおじでもあった。
ゆるゆると笑うその笑顔は若く、整っていて、それが余計に大企業の社長とは思えない雰囲気を作り出していた。
「ウェンディがそう言うなら、どうぞ」
カーティスが言うが早いか叩かれた扉が開いた。
失礼します、とあらわれたのは背の高いブロンドの女。
デザイン科のマドンナだよ、カーティスがそうささやいて、ウェンディは目を細めた。
スタイルのいいそのお姿は、いかにもニューヨーカーといったセンスのいいファッションで決められている。
高飛車そう、誰にでもなく囁いて、ウェンディはその女を眼で追った。
「社長、この子は?」
デスクの前に立つなり彼女はすぐ横の椅子でまるまったウェンディを見下ろした。
ウェンディも負けずに彼女を見上げ返す。
「この子はウェンディ。僕の姪だよ。しばらく預かることになってね」
「作用でしたか…。しかし、社長室にまで連れ込むなんて公私混同しているとしか思えません、もう少し立場をわきまえて、」
「君が言いたいのは、」
早口になるブレンダの言葉をさえぎって、笑顔のままの社長は言う。
「仕事しろってことだけ?」
カーティスはそう言うなり、ブレンダの前にばさりと資料の束を押しつけた。
ブレンダの顔が一瞬固まって、見る見るうちに赤くなる。
それを見上げながらウェンディは、ケラケラとわざとらしく笑った。
「…っそういう、わけじゃ、…!」
「言いたいことは?」
笑顔のままのカーティスが、ゆっくりと聞き返す。
ウェンディはつまらなさそうに、手首にかけたゴムを引っ張って遊びだした。
それが気に喰わなかったのか、ブレンダは小さく顔をしかめる。
「急ぎではありませんので週明けの会議で報告します…。よい週末を、社長」
言うが早いかくるりと背を向けたブレンダ。
かつかつとヒールの音が遠ざかっていくのを背中で聞きながら、ウェンディは目を細めた。
ぎぃ、と扉が開く音がして、カーティスの柔らかい声が言う。
「よい週末を、ブレンダ」
扉が閉まった後、カーティスが小さくため息をついたのをウェンディは聞き逃さなかった。
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