そこに少女が現れた、という認識は俺には無くて
突然背後からふわりと、この世のものとは思えない甘美な香りが届いた、という認識だったという方が正しいだろう
春風がさわさわと通り抜けるこの広い庭に、青いワンピースを着た彼女は現れた
「……こんにちは」
「…………」
俺が投げかけたあいさつにも彼女は黙りこんだまま、その愛らしい顔に一片の表情らしきものはなにも載せないでいて
ただ無表情のまま、すっと一歩だけ俺から遠ざかった
その瞬間俺には、目の前の少女が人間というより小動物のように思えた
例えるなら、うさぎのように、
近づいて行ってその頭を撫でてやりたいのだけど、一歩でも近づけば一目散に逃げ出しそうな雰囲気だ
俺はなんと声をかけるべきか迷って、しばらくその少女を眺めていたが、
少女の方は黙って俺を後ろを見つめているように思えたので、俺は結局極力そうっと丁寧な声を出した
「これは薔薇だよ、薔薇の花。ツタを這わせて成長するんだ。人の手が無いと、綺麗に咲かないのさ」
そう言いながら、俺は苦笑する
人の手が無いと、綺麗に咲かない、か
なんとも皮肉な解説だ
「………ばら…」
消え入りそうな声だったが、俺の耳には確かに届いた
俺の言葉を繰り返すように、彼女は小さな声でそう呟くと、すっ、と一歩だけ前に足を踏み出す
それからもう一歩、踏み出そうとした足をやめて、彼女は止まったままその大きな眼でじっと俺を見つめた
5mはあるその距離で、俺に伝える意思があるのかないのか、彼女はトーンを変えずに言葉を落とす
「…兄さんが、言ってたの。ばらは、いい香りがするんでしょう?」
「あぁ、そうだね」
「シシーと、どっちがいい香りがするの?」
シシー?
少し眉を上げた俺の前で、少女は少しうつむき加減に地面を見つめ、それから薔薇の花を見つめる
そうか、この甘い匂い、やっぱりこの子が出していたのか
その美しい顔立ちに俺はただ妙に納得して、同時に彼女が微笑ましくも思える
すっと薔薇の前から横にずれた俺を、少女は小さく首をかしげて見つめているから
俺はそっと笑ってこう言った
「確かめてみたらいい。どっちが素敵な香りか、お前さんが決めればいい」
俺を見上げる青いワンピースの少女は、頷きもせず、ただ突っ立っているままで
それでも静止した三秒後には一歩足を踏み出した
ゆっくり、彼女が薔薇に近づいて行くたびに、甘いふわふわした香りが辺りにやわらかく広がる
そっと顔を寄せた彼女に、棘に気をつけて、と注意するのを忘れずに
俺は少し離れたところで彼女を見守っていた
赤い花びらをつけた綺麗な薔薇は、今ごろ自分より甘い香りに包まれて、きっと焦っていることだろう
少女が小さな手で優しく触れた赤は、身につけた青よりも、彼女に似合っている気さえした
ただぼうっと、甘い香りが辺りを包む
俺は見るともなしに少女を見つめて、いやむしろ、彼女しか見えなくなっているような錯覚にさえ陥っていて
ふわり、少女が薔薇から離れた時、俺は二、三度瞬きをしなければならなかった
「シシーの方がいい香りだった」
最初に聞いた声と同じトーンで、少女はぽつりと感想を口にする
その顔に、なんの表情も載せない彼女に対し、
俺もそう思ってた、声にしない言葉は、自然と微笑みに変わる
「お花、くわしいの?」
「むかし、ある人が教えてくれてね」
静かな声で繰り返す少女に、俺も答えた
今じゃこの通り、庭師なんてやってるんだ
俺が呟いたその途端、ちらり、と少女の目が俺を捉えた
「シシーはお花にくわしくないの。でも、いちばんいい香りがするお花なら知ってる」
え、と浮かべた疑問符に、春風が甘い香りを散らしながら鼻先をかすめる
彼女の蒼いワンピースが、風にあおられて膨らんだ
「いちばんすてきな香りがするの。兄さんはいつもそういうの。あなたも本当は、そう思ったでしょ」
いまだ辺りに広がるその甘美な香りを楽しむように、彼女はひとつ息を吸う
彼女の口元に漸く笑みが浮かんで、俺は苦笑したまま、漸く安堵のため息を漏らした
俺がその頭に手をのせたとしても、きっとうさぎはもう逃げてしまわない、そういう笑顔だった
「そのお花ね、シシーっていうの。病みつきになっちゃうぐらい、可愛いお花なんだよ」
むしろ逃げられなくなったのはこの俺の方かもしれないな、
俺は甘い香りに包まれながら、ぼんやりとそう思った